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ペートンターン首相失脚 国境問題と利権が交錯するタイ・カンボジア関係

ペートンターン首相失脚 国境問題と利権が交錯するタイ・カンボジア関係

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2025年8月29日、タイの憲法裁判所はペートンターン・シナワット首相が倫理規定に違反したとして解職を命じた。カンボジア上院議長で前首相のフン・セン氏との電話会談の音声が流出し、ペートンターン氏が「おじさん」と呼ぶなど首相としての品位を欠く発言をしたうえ、自軍司令官を貶める内容も含まれていた。本稿では、この会談の発端となった国境紛争と、録音がカンボジア側から流出した背景を考えてみたい。

歴史に根ざすタイとカンボジアの国境問題

今回の紛争の直接の原因は、国境付近にあるプレア・ビヒア寺院の帰属をめぐる問題である。だが、事の本質は寺院そのものではなく、両国の歴史に根ざしている。

カンボジアは、自国をクメール王国の流れをくむ国と考えている。クメール王国は802年から1432年にかけて繁栄し、その中心には世界的に知られるアンコールワットがあった。しかし、王国は次第に衰退し、アンコールワットもやがて密林の中に埋もれていく。

この衰退には、タイ族の民族移動が関係している。現在のタイ人に連なる人々は、かつて中国南部に暮らしていた。現在も中国の雲南省やラオス、ベトナムの山岳地帯に少数民族として存在しているが、彼らとタイ人の祖先は同一と考えてよい。

南下したタイ族は、チャオプラヤー川中流域にスコータイ王朝を築いたが、その地は本来クメール王国の支配下にあった。スコータイ王朝は第3代王ラームカムヘーン(在位1279〜1299)の時代に最盛期を迎え、以後アユタヤ王朝、トンブリー王朝を経て、現在のチャクリー王朝へと続いていく。

クメール王国は、1431年のアユタヤによる侵攻で壊滅的な打撃を受けた。その後、クメール王朝の末裔たちは首都を移転させながら国の存続を図ったが、その間にもタイとベトナムはカンボジアの領土を侵食し続けた。

その結果、中世には東南アジア大陸部に広大な版図を誇ったクメール王国は、現在のカンボジアとほぼ同じ規模にまで縮小してしまった。こうした状況の中で、1863年、カンボジアのノロドム王はフランスに保護を依頼し、カンボジアはフランスの植民地となった。

カンボジアには、タイとベトナムの両国に領土を奪われたという歴史的な意識がある。ベトナムに取られたのはメコンデルタ地帯で、面積としてはそれほど大きくないが、タイはクメール王国の領内に国を築いた。そのため、カンボジアでは一般的に、ベトナムよりもタイに対して複雑な感情が残っている。

今回の紛争の原因となったプレア・ビヒア寺院はビンズー様式で建てられており、明らかにクメール人による建造物である。ハーグの国際司法裁判所が同寺院のカンボジア帰属を認めたのは、当然の判断と言えるだろう。タイ国内にもプレア・ビヒア寺院によく似た寺院がいくつか存在するが、それはタイという国がもともとクメール王国の版図内に建国されたことを示している。

国境問題年表

発展格差が生んだ感情の隔たり

タイでは、カンボジアがクメール王国の話を持ち出しても、それは遠い昔のことであり、今さら議論することではないという見方が多い。一方で、近代においてタイは西欧の植民地にならなかったという誇りを持ち、経済面でもカンボジアより早く発展を遂げたという自負がある。こうした歴史的・社会的背景の違いが、両国の間に微妙な感情の隔たりを生むことがあり、これが時に領土問題を再燃させる一因となっている。

タイとカンボジアの関係が悪化するのは、今回が初めてではない。2003年、カンボジアでは「タイの女優が『アンコールワットはタイのものだ』と発言した」と報じられたことをきっかけに、カンボジアの民衆が激しく反発し、プノンペンのタイ大使館やタイ系ホテル、商店、工場などが放火や投石の被害を受ける事件が発生した。この騒乱でタイ人1名が死亡している。

それに対し、タイ側でも民衆がカンボジア大使館を取り囲み、カンボジア国旗を焼くなどの抗議活動を行った。その後、問題の女優はそのような発言をしておらず、報道が誤りであったことが判明している。このように、わずかな誤報であっても、カンボジア社会におけるタイへの反発は一気に臨界点に達してしまうことがある。

当時、カンボジアの首相だったフン・セン氏は、加害者への厳罰を表明し、タイに謝罪するとともに賠償にも応じる姿勢を示したことで、事態は沈静化した。また、タイのプミポン国王が健在であり、国民に冷静な対応を呼びかけたことも事態収拾に大きく寄与した。

紛争の背後に見える政治的駆け引き

今回のプレア・ビヒア寺院を巡る紛争については、どちらが先に仕掛けたのかは明らかになっていない。ただ、筆者は状況から見て、カンボジア側が先に動いた可能性が高いとみている。紛争当初、タイは受け身の姿勢を取っており、それほど強い反撃を行っていなかったが、カンボジアの攻勢が続いたことで、最終的にはF16戦闘機が出撃する事態にまで発展した。

カンボジアが強気に出た背景には、2003年当時と比べて軍隊が力をつけたことがある。依然としてカンボジア軍はタイ軍に比べて圧倒的に劣勢ではあるものの、現在ではまったく手出しができない状況ではない。全面戦争は不可能でも、国境付近での小規模な衝突であれば対応可能な力を持っている。

紛争の収拾に向けて、フン・セン氏とペートンターン氏の電話会談が行われたが、その録音がカンボジア側から流出した。意図的な流出であったかどうかは定かでないものの、結果的にフン・セン氏に有利な形で公表されることとなった。録音を聞く限りでは、フン・セン氏が終始慎重に発言しているのに対し、ペートンターン氏はやや踏み込んだ発言を重ねている。

カジノ利権をめぐるタクシン派とフン・セン氏の思惑

ペートンターン氏の父親であるタクシン元首相は、タイ国内に賭博場を併設した複合娯楽施設(EC)の建設を構想していたとされる。ペートンターン氏もEC法案を国会に提出しており、5月に国境で小競り合いが始まった当時、その審議がちょうど進められていた。

一方のフン・セン氏は、タイでの賭博場建設を望んでいなかったと考えられる。これまで多くのタイ人が賭博を目的に、両国の国境に位置する街ポイペトを訪れていた。もしタイで合法的な賭博場が認められれば、タイ人は自国で遊ぶようになり、カンボジアに流れていた資金が減少する恐れがある。さらに、カジノの重要顧客である中国人観光客が、観光資源の豊富なタイへ流れる可能性もあった。

こうした状況の中で、カジノ建設をめぐってフン・セン氏とタクシン氏の間に水面下の対立が生じたとみられる。フン・セン氏は、かつてタクシン氏やその妹インラック元首相が国外逃亡中に支援を行っていた経緯があり、それだけに今回の件に対して不快感を示した可能性がある。実際、そうした心情をうかがわせる発言もしている。

タイ国内の反タクシン派は、タクシン氏が新たにEC関連の利権を築こうとしていることに強い警戒感を抱いていた。この点で、反タクシン派とフン・セン氏の利害が一致した可能性がある。録音流出によってペートンターン氏の影響力が低下すると、反タクシン派は「敬虔な仏教徒が多いタイにはカジノはそぐわない」とし、結果的にカジノ法案の成立は見送られることとなった。フン・セン氏にとっては、政治的に優位な展開となったといえる。

経済停滞が再燃させる隣国対立

もちろん、ここに記した経緯がすべて事実であるとは断言できない。しかし、このように整理すると、複数の出来事の流れを一貫して理解することができる。

仮にフン・セン氏がタイのカジノ法案に反対の立場を取り、国境問題を政治的な交渉材料としたのだとすれば、それは一国の指導者として看過できない行為である。カンボジアとタイの間には、歴史的な経緯に基づく複雑な感情が残っており、こうした動きは相互理解を一層難しくしかねない。両国民の間で感情的な対立が再燃すれば、地域の緊張が再び高まる可能性もある。

タイは依然として「中進国の罠」から抜け出せず、経済の停滞が続いている。カンボジア経済も長く中国からの投資に依存してきたが、その中国は不動産市場の低迷により成長に陰りが見え始めた。両国とも、歴史的な感情に基づく対立ではなく、構造改革や経済基盤の強化に注力する局面にあるといえる。

ただし、見方を変えれば、経済の停滞こそが隣国との対立を誘発したとも考えられる。人も国も順調な時は隣人や隣国に寛容でいられるが、不調になると些細なことにも敏感になる。タイもカンボジアも、いままさにそうした時期を迎えているのかもしれない。日本としては、その背景を冷静に理解した上で、両国と建設的な関係を築いていくことが求められる。

執筆者
川島 博之
ベトナム・ビングループ主席経済顧問
Martial Research & Management Co. Ltd.,
チーフ・エコノミック・アドバイザー

1953年生まれ。77年東京水産大学卒業、83年東京大学大学院工学系研究科博士課程単位取得のうえ退学(工学博士)。東京大学生産技術研究所助手、農林水産省農業環境技術研究所主任研究官、ロンドン大学客員研究員、東京大学大学院農学生命科学研究科准教授などを経て、現職。