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インドのカースト制度 謎だらけのインドを解く一本の糸

インドのカースト制度 謎だらけのインドを解く一本の糸

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インドビジネスに携わるビジネスパーソンの中には、インドのカースト制度について誤解していたり、その重要性を十分に認識していなかったりする例が少なくない。しかし実際には、カースト制度はインド人の社会や価値観に極めて大きな影響を与えており、その理解なくしてインド社会を正しく捉えることは難しい。本稿では、カースト制度とそれに起因する問題をひも解きながら、複雑に見えるインド社会の構造や人々の行動原理を解説するとともに、日系企業が実務上留意すべきポイントを整理する。

目次

マネサール暴動が示すカースト問題

2012年マネサール暴動の実態

2012年、デリー郊外のハリヤナ州マネサール。ある日系企業の敷地で、暴動が発生した。工員たちは経営陣を会議室に閉じ込め、鉄棒と車のドアパネルで殴打し続けた。オフィスビルには火が放たれた。インド人の人事部長は建物から脱出できず、炎の中で亡くなった。日本人駐在員を含む100名以上が負傷し、85名が入院した。逮捕者は500名を超え、首謀者13名に終身刑が言い渡された。

被告側の主張によると、現場監督の一人がSC出身の工員を侮辱したことが暴動の原因になったという。SCというのはScheduled Casteの略であり、各州が別途指定するカーストを意味する。すなわち、伝統的に差別されてきた、不可触民(Untouchable、ヒンディー語でDalit・ダリット)のことである。この事件、日本の経済紙には小さく報じられたが、日系企業の駐在員コミュニティでは今も語り継がれる。

図表①

職場の「よくわからない」の背後にあるもの

なぜ清掃を頼んだだけで工員が辞表を出すのか。なぜ同僚の悪口を言っただけで告発されるのか。なぜベジタリアンとノンベジタリアンの間で対立が起きるのか。インドの職場で「よくわからない」と感じる出来事のほぼすべてに、カーストが絡んでいる。

カースト制はすでに廃止されている?

憲法と現実のギャップ——カースト制度自体は今も合法

カースト制度は過去の遺物であり、「カースト制度はすでにインド憲法で廃止されている」と信じている日本人は多い。しかし、これは正確ではない。インド憲法の起草者である法学者B・R・アンベードカル博士は、カースト制度自体の廃止を主張した。一方、マハトマ・ガンジーは、社会の役割を定めるカースト制度に一定の合理性を見出し、制度自体は廃止しない立場をとった。両者の意見が対立するなか、最終的にはガンジーの主張が取り入れられた。カースト制度を基盤とするヒンドゥー教徒が人口の8割を超えていたことや、暴動や国内分断が生じかねなかったことを考えると、この判断は穏当だったのではないだろうか。

結果として、インド憲法で禁止されているのは「カーストに基づく差別行為」であり、カーストという社会制度や、それをめぐるアイデンティティ・集団は今も厳然と存在する。婚活アプリでカーストを選択肢として表示することも、カースト別の政治団体が存在することも、現行法上問題はない。州政府は、補助金や公務員採用の留保枠(リザベーション)を付与するためのカースト一覧表を今も公開している。

そもそも「カースト(caste)」という言葉自体、インドの言葉ではない。16世紀にインドを訪れたポルトガルの船乗りが、目の前の複雑な社会階層を自国語「カスタ(casta:血統・品種)」で呼んだのが語源だ。

図表②

「ヴァルナ」と3,000超の「ジャーティ」

インド人自身が使う概念は「ヴァルナ(Varna)」と「ジャーティ(Jati)」の二つ。ヴァルナは古代インドの大分類で、宗教・学問を司るバラモン、王族・武士のクシャトリヤ、商業・農業のヴァイシャ、労働者のシュードラという4層に加え、この4つの「外側」に置かれた不可触民(ダリット)がいる。

ただしこのヴァルナという4分類は「縮尺の大きすぎる地図」だ。実際の社会で意味を持つのはジャーティ——3,000種類以上に細分化された職業カースト集団だ。日本語で言えば「名字」に近い。「服部(機織り)」「鍛冶」という職業由来の名字が日本にあるように、「Chamar(皮革職人)」「Dhobi(洗濯屋)」「Lohar(鍛冶屋)」という名字がカーストを示す。

名字でわかるカーストと「内婚制」

日本の名字と決定的に違う点が一つある。内婚制(エンドガミー)——同じジャーティの人としか結婚できないという原則だ。インド国勢調査(2011年)によれば、カーストをまたいだ結婚はインド全体でわずか5.8%。別の調査では、非ダリットのヒンドゥー教徒の約40〜60%が「異なるカーストとの婚姻を法的に禁止すべきだ」と考えていた。

インド人の名刺を受け取った瞬間、その名字から出身地域やカーストをほぼ推測できる。「Sharma」「Mishra」「Tiwari」はバラモン系。「Singh」はクシャトリヤ系ヒンドゥー教徒(またはシーク教徒)で、特にパンジャーブ州に多い。「Patel」はグジャラート州の農業・商業カースト。そして「Chamar」「Dhobi」という名字は、それを名乗るだけで就職・賃貸・結婚の場面で不利になる。

そのため、低位カーストが裁判所の許可を取得して名前を変えることもある。もっとも、見た目の特徴やふるまい方、話し方、そのジャーティに属していれば知っているはずの事柄を知らないことなどから、インド人同士では、名字を変えても本来の名字ではないと見抜かれることが多いという。

制度が数千年維持される4つの仕組み

低カーストに属する者への歴史的な差別は、日本で言えば、部落差別と名字の関係に近い。「どこの出身か」「親の職業は何か」といった理由で不当な扱いを受けた日本の歴史と、構造として重なる部分がある。

カースト制度が維持される仕組みはシンプルだ。出生で決まる(変えられない)、内婚制で閉じる(混ざれない)、職業が世襲される(固定される)、そして宗教がそれを正当化する(逃げられない)。「現世での地位は前世の業(カルマ)の結果だ」という論理が、差別される側の怒りを「前世の自分のせい」として内側に向けてきた。この構造が数千年にわたって機能し続けているのである。

ダリット(不可触民)という存在

ダリット(不可触民)とは

「ダリット(Dalit)」とはヒンディー語で「踏みにじられた者」を意味する。ヴァルナの4分類の「外側」に置かれた不可触民の現代における自称だ。インドの公式分類では「指定カースト(SC:Scheduled Caste)」と呼ばれ、人口の約16〜17%、2億人以上がこれに該当する。

「不可触」とは文字通り、触れてはいけない——という意味だ。死体の処理、皮革の加工、トイレの清掃——上位カーストが「穢れ」とみなす仕事をすべて担わされてきた。彼らが使う井戸は別、座るベンチは別、入れる寺院も別——という分離が、20世紀の後半においても数多くの地域で維持されてきたのだ。

「不可触民制度は廃止された」と言われるが、現実はそうではない。インド国家犯罪記録局(NCRB)の最新統計(2024年)では、一年間だけで約5万5,700件のカースト絡みの犯罪が警察に届け出られた。しかし有罪率は約3割にとどまる。理由は単純だ。警察官の多くが上位カースト出身であり、不可触民をはじめとする下位カーストからの告発を真剣に扱わないことが多いからである。証人は脅迫され、被害者家族は村から追い出される。
図表③

警察・司法の壁——ハトラス事件の現実

2020年に起きたウッタル・プラデーシュ州ハトラスの事件は、その現実を世界に見せた。

19歳のダリット女性が農場で上位カーストの男性グループに暴行され、2週間後に死亡した。問題は、その後の警察の対応である。彼女が死亡した深夜、地元警察は遺族の同意を得ないまま遺体を強制火葬にした。その映像はSNSで世界中に拡散され、法学者から「DNA証拠を消すための行為だ」との批判が相次いだ。

判決では強姦罪も殺人罪も認められず、被告の一人に過失致死罪のみで終身刑が言い渡された。法廷は「被害者の性器に強姦に関連する傷や痕跡は認められず、医師・看護師のいずれも強姦に関する証拠を確認したとは証言しなかった」と述べている。警察による強制火葬がDNA証拠を消滅させ、捜査機関自身が証拠を破壊したともいえる状況で、証拠収集の遅れと複雑な証拠構造が有罪立証を困難にした——これが実態である。

図表④

写真①

イスラム教・シク教にも及ぶカーストの呪縛

「不可触民制度はヒンドゥー教だけの問題」という誤解も根深い。全米応用経済研究所(NCAER)などがインド全土で実施した大規模な社会調査によれば、ヒンドゥー教徒だけでなく、シク教徒の23%、ムスリムの18%が「自分の家庭内で不可触民制度(触れることを避けるなどの差別行為)を実践している」と認めている。

本来は平等を説くはずのイスラム教内にも、歴史的経緯から上位(アシュラフ)・中位(アジュラフ)・下位(アルザル)という実質的な三層構造が存在しており、他宗教へ改宗したからといって、カーストというアイデンティティが消えるわけではなかったのだ。

研究者たちは、いかなる社会環境においても容易には引き剥がせないこのカーストの呪縛を、「sticky baggage(脱ぎ捨てにくい荷物)」と表現している。

アンベードカル博士の闘いと「仏教徒」の意味

不可触民出身のアンベードカル博士は、この構造と生涯をかけて闘った人物である。「ヒンドゥー教の中にいる限り、差別から逃げられない」と確信した彼は、晩年に数十万人の不可触民とともに仏教へ集団改宗した。アンベードカルの人生は、カースト制度の残酷さと、それに抗う人間の可能性を同時に示している。

1891年、不可触民の家庭に生まれた彼は、学校で上位カーストの生徒と同じ水道を使うことを禁じられた。教師でさえ、彼のノートに触れることを拒んだ。それでも彼は奨学金を得てコロンビア大学に進み、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで博士号を取得。帰国後はインド憲法の起草委員長となり、不可触民制度の禁止を憲法に明記させた。

しかし晩年、彼は静かに確信した。「ヒンドゥー教の中では、どれだけ法律を変えても差別の構造は変わらない」と。1956年、彼は数十万人の不可触民とともに仏教へ集団改宗した。ヒンドゥー教のカルマ論——「今生の身分は前世の行いの結果だ」という論理——を根本から拒否する行為だった。

彼が亡くなったのはその改宗から6週間後。享年65歳だった。

名誉殺人——異カースト婚が命がけとなる理由

異カースト婚をめぐる親族・共同体の暴力

異なるカースト間の結婚は、今もなお命がけの行為になりうる。「名誉殺人(Honour Killing)」とは、異なるカースト間、あるいは同じカースト内でも異なる亜集団(ゴートラ)間の結婚が「家の名誉を汚した」として、親族が当事者を殺害する慣行だ。インドでは今もなお、異カースト婚をしたカップルが親族に殺されるケースが各地で報告され続けている。

低カースト(例:不可触民)の男性と、一般または高カーストの女性が結婚しようとすると、カーストを汚されたとして、女性側の親族が女性を殺害する例が多い。親族自身も同じカーストの一族から圧力や脅迫を受け(あるいはそれを恐れて)、心ならずも殺害に及ぶケースも多い。

インド国家女性委員会(NCW)は、「名誉犯罪」の多くが異カースト婚を理由としていることを記録している。グジャラート州の1,589村を対象にした調査では、98.4%の村でカーストをまたいだ婚姻が禁止されており、しばしば暴力を伴うという結果が出た。

村落会議(Khap Panchayat)というものがある。主にハリヤナ州やウッタル・プラデーシュ州の農村地帯に存在する、伝統的な氏族評議会だ。法的な権限は持たないが、「あのカップルに制裁を」と決議することで実質的な暴力装置として機能することがある。インドの最高裁判所は繰り返しこれを批判してきたが、撲滅には至っていない。

婚活アプリが示す内婚制

こうした価値観は、婚活アプリにも色濃く反映されている。インド最大手の婚活アプリ「Shaadi.com」を開くと、プロフィール入力欄にカーストと亜カーストの選択肢が細かく並んでいる。「カースト不問(Caste No Bar)」という選択肢はあるが、選ぶ人は少数派だ。アプリのマッチングは統計的に同一カースト内に収斂する傾向が強く、「カースト」は単なる出自の記録ではなく、誰と結婚できるかを規定する制度として今も機能している。
図表⑤

留保制度が生む新たな対立

留保制度の概要

インドの憲法には「留保(リザベーション)制度」がある。歴史的に差別を受けてきたグループに対して、政府機関の採用枠や大学入学枠を一定数「留保」する制度——日本語で言えば「積極的格差是正措置」だ。

対象となるのは主に3グループである。

  • SC(指定カースト):主にダリット。政府採用枠の15%が割り当てられている。
  •  ST(指定部族):先住民族系。7.5%が割り当てられている。
  •  OBC(後進諸階級):SC・STに次ぐ、中間的な低位カースト集団で、1990年代の制度改正によって27%が割り当てられた。

合計すると、政府機関の採用・大学入学枠の約49.5%が留保枠となる計算だ。

図表⑥

留保制度をめぐる暴動と「頭脳流出」

この制度の結果、留保枠に入れない上位カーストの若者が、能力があっても政府機関や名門大学に入れないという問題が生じている。一方で「リザベーションの対象になるためにカーストとして団結することが合理的」という状況が続いており、カーストのアイデンティティを強めるほど政治的・経済的な権利が得やすくなるという逆説的な構造になっている。

2016年2月のハリヤナ州ジャート暴動は、留保枠外の人々の不満が爆発した一例である。農業カーストのジャートがOBC認定(27%留保枠への参入)を求めて10日間の暴動を起こし、デリーへの主要給水管(ムナク運河)を破壊し、国道を封鎖した。死者31名、経済損失は推計で約5,000億円。グルガオン周辺に工場を持つ日系企業も操業停止を余儀なくされた。差別を解消するための制度が、逆に差別の構造を固定化してしまっているのである。

補足すると、「頭脳流出」という現象もこの制度と無関係ではない。上位カーストの優秀な若者が、留保枠のない民間企業やシリコンバレーへ流れるという動きがある。インド系がIT業界で突出した存在感を示す背景の一端に、こうした構図があるという分析もある。GoogleのCEO、MicrosoftのCEO——グローバル企業のトップに立つインド系エリートの多くがバラモン出身であることは、偶然ではないかもしれない。

「カーストの縛りなき職業」IT産業の理想と現実

ITという職業が生まれたのは20世紀後半で、カースト制度が社会に確立した5世紀頃には存在しなかった。つまりITは、数千年かけて構築されてきた「どの職業を誰が担うか」という世襲制度の枠外にある。Chamar(皮革職人)もDhobi(洗濯屋)も、「この仕事は我々のものだ」と主張できる歴史的根拠を持たない。バラモンの子もダリットの子も、少なくとも制度上は、等しくエンジニアになれる可能性がある。

その結果、1990年代のIT産業の急成長以降、多くのインド人家庭がIT分野への進学・就職を目指すようになった。インドが今や世界最大のITエンジニア輩出国となった背景には、この「カーストの縄張りが存在しない職業」への国全体での参入がある。

しかし実態として、IIT(インド工科大学)など名門工科大学への進学実績は今も上位カーストに偏っており、教育機会の格差がスタートラインの差に直結している。IT企業のマネジメント層はバラモン系が多く、グローバルIT企業の上位に立つインド系エリートも上位カースト出身に偏っている。

例えば、MicrosoftのCEOであるSatya Nadella氏はテランガーナー州ハイデラバード出身のバラモンであり、YouTubeのCEOであるNeal Mohan氏もルーツをウッタル・プラデーシュ州ラクナウに持つバラモンだ。カーストのない職業のはずが、上に行けば行くほどカーストが見えてくる。

図表⑦

日常に息づくカースト——トイレを掃除しないハウスキーパー

メイドがトイレを掃除しない理由

インドに駐在してみると、カーストは教科書の話ではなく、日常のあらゆる場面に顔を出すことがわかる。インドで家を借りてメイドを雇おうとすると、「床の掃除はやる。でもトイレはできません」と言われることがある。最初は「さぼりたいのか」と思ったが、実はここにもカーストが深く関係していた。床を拭く人と、トイレを清掃する人は、そもそも別のジャーティ(職業カースト集団)なのだ。

これは会社でも同じことが起きる。インドのオフィスに行くと、スタッフの数が「なぜこんなに多いのか」と感じることがある。受付に3人、お茶を運ぶのに別の担当がいるのだ。高級レストランでも、テーブルを片づける人と、床を掃くのが仕事の人は別々に分かれている。

仕事の種類ごとに担当するカーストが細かく分かれており、兼任ができない構造になっているのである。

上位カーストと「不浄」の概念

インドの上位カーストにはベジタリアンが多い。これは単なる食の好みではなく、ヒンドゥー哲学やカーストと根深い関係がある。ヒンドゥー哲学では、食べ物を「サットヴァ(純粋)」「ラジャス(激情)」「タマス(暗鈍)」の三種に分類する考え方があり、肉食はラジャスまたはタマスに属するとされてきた。精神的に清澄であるべきバラモンにとって、肉食はその状態を乱すものとして長く忌避されてきた。

加えて、動物を屠殺する・皮を剥ぐ・血に触れるといった行為は「不浄な仕事」として低位カーストに割り当てられてきた経緯があり、食肉を口にすることは、その不浄さを体内に取り込む行為と見なされてきた側面もある。

この「不浄に触れない」という感覚は、食べ物だけの話ではない。看護師の業務は、患者の下の世話や吐瀉物の処理、身体を拭くといった直接的な「ケア」を担うことから、カースト制度における不浄な肉体労働と結びつけて認識されがちだ。そのため、上位カーストの人々が看護師になることを忌避するケースは現在も少なくない。対して、インド全土でキリスト教徒(特に南インド・ケララ州出身者)の看護師が多いのは、カーストを問わず、「穢れ」の概念にとらわれにくいからだと考えられる。

一方で、高給で「指示を出す側」である医師の多くはバラモンなどの上位カーストが占めている。留保枠によって下位カースト出身の優秀な学生も医師になる道が拓かれているとはいえ、上位カーストがマジョリティを占める医学部や医局の中で、下位カーストの医学生・医師に対するハラスメントやいじめが横行している。2019年には、マハーラーシュトラ州のトップクラスの病院で働くST(指定部族)出身の若き女性医師が、上位カーストの先輩医師3人からハラスメントを受け、自殺に追い込まれるという痛ましい事件が起こっている(パヤル・タドヴィ医師自殺事件)。

現代の医学部や大病院の中でさえ、出自をめぐる見えない差別が今も社会問題となっているのだ。

図表⑧

偽名とカーストパッシング

低位カーストの人々のなかには、名前を変えることでカーストを隠そうとするケースがある。名字でカーストが推測できるため、名字を変える、あるいはカーストを示さない名前を使う——「カーストパッシング」と呼ばれる現象だ。フルネームを名乗ることを意図的に避ける人もいる。

職場での差別が現実にある以上、これは合理的な自衛手段だ。しかし同時に、「ここまでしなければならない社会」の問題でもある。

カーストパッシングは名前だけではなく、住む場所にも影響を及ぼす。インドの都市部では、賃貸物件のオーナーが入居審査の際に「カーストは何ですか」と直接尋ねるケースが今も報告されている。

さらに、結婚式の招待状にさえもカーストを記載する慣習がある地域もある。「どのコミュニティの誰が結婚する」という情報は、参列者の顔触れを決める社会的なシグナルとして機能する。日本の結婚式に職業や出自を記した招待状が届いたら……と想像すると、その異質さが際立つ。

図表⑨

インドでビジネスパーソンがとるべき対策

カーストについて知ることと、それを職場で「活用」することは全く別の話だ。筆者がよく言う言葉がある。「最善の対応は、知った上で知らないふりをすること」だ。カーストを見ない(カースト・ブラインド)という姿勢を職場で一貫して維持すること——これが法的にも人間的にも正しい経営姿勢だ。

採用面接でカーストに触れない

「あなたのカーストは何ですか」はもちろん、「出身地はどこですか(カーストを推測しようとしている)」という文脈の質問も問題になりうる。SC/ST差別禁止法(Scheduled Castes and Scheduled Tribes (Prevention of Atrocities) Act, 1989)は「逮捕状なし・保釈なし」という強力な効力を持つ法律で、外国人駐在員にも適用される。採用基準はスキル・経験・実績のみとし、出身・宗教・カーストに関するいかなる情報も収集しない。

5S活動の導入・運用には注意が必要

日本では当たり前の「5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)」も、インドでは注意が必要だ。清掃業務を全従業員に義務付けることが、SC/ST法違反の申立てリスクにつながることがある。清掃は外部業者への委託を基本とし、日本式の管理手法をインドに持ち込む際は現地の労働法専門弁護士によるレビューを経たローカライズが必要だ。2012年のマネサール事件の教訓はここにある。

食堂のベジ・ノンベジ分離は法的義務

FSSAI(食品安全基準局)規則に基づき、社員食堂のベジタリアンとノンベジタリアンの調理設備・食器・提供ルートの分離は法的義務だ。違反した場合、最大70万ルピーの罰金と禁固刑が課される可能性がある。ジャイナ教系の取引先との会食では、玉ねぎやにんにくも使わないレストランを選ぶ必要がある。グジャラートでは「ピュア・ベジタリアンのレストラン」以外での接待が、相手への侮辱になりうる。

BCPに「社会的暴動」シナリオを組み込む

ジャート暴動(2016年・ハリヤナ州)、マラータ留保要求抗議(マハーラーシュトラ州)、パティダール留保要求(グジャラート州)——リザベーションをめぐる争いは周期的に発生し、道路封鎖・給水網破壊がサプライチェーンを直撃する。こうしたシナリオを想定した事業継続計画(BCP)の整備は、インドに工場を持つ日系企業にとって必須だ。

カースト問題は国境を越える

調査機関Equality Labsの調査では、米国在住のダリットの67%が「職場でカーストを理由に不当な扱いを受けた」と回答している。2020年には、カリフォルニア州当局がインド系マネージャーによるダリット出身エンジニアへの職場差別を理由に、大手IT企業を提訴した。2023年には、シアトル市がカーストを差別禁止の保護対象として明示的に追加した。インド系社員の多いIT部門では、昇進・評価プロセスのモニタリングが求められている。

おわりに —— カーストは「インドの昔の制度」ではない

今この瞬間も名誉殺人は起き、5万件を超えるカースト関連犯罪が報告され、婚活アプリのプロフィール登録にはカースト入力が求められ、トイレ掃除をしないハウスキーパーが存在する。

この国で何かをしようと思ったとき、カーストを知らずに進めることは、地図を持たずに知らない街を歩くようなものだ。地図を持ちながら、できるだけ地図を使わずに済む道を選ぶ——それが、インドにかかわる人間に求められる最低限の教養だと、筆者は考える。

出典・参考文献

  1. India Briefing(2012)
  2. National Crime Records Bureau, Crime in India 2024
  3. The Wire(2020.9)
  4. National Council of Applied Economic Research(NCAER), and University of Maryland. India Human Development Survey-II(IHDS-II), 2011-12.
  5. National Commission for Women, Report on Honour Killings(2010)
  6. NCAER & University of Maryland, India Human Development Survey(2011-12)
  7. International Dalit Solidarity Network, Untouchability Still Rife in Modern India
  8. Thorat & Newman, Economic and Political Weekly(2010)
  9. California Civil Rights Department(2020.6)
  10. Equality Labs, Caste in the United States(2018)
  11. Registrar General of India, Census of India 2011
  12. The Hindu(2019.5)
  13. Hindustan Times(2016.2)
執筆者
志村 公義
GVA国際法律事務所
インド・南アジアオフィス代表 弁護士

GVA国際法律事務所パートナー、インド・南アジア事務所代表。弁護士(日本法)。外資系法律事務所および企業内法務を経て、2019年よりインドに駐在。世界193の独立国・地域をすべて訪問。南アジア・中東・アフリカのビジネス法務に精通し、企業の海外進出・事業再編・撤退支援や紛争解決を手がける。

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