
フィリピンの最低賃金上昇とその影響
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ここ数年、フィリピンの最低賃金は毎年のように上昇しています。最低賃金は労働者の「日々の生存」を左右する重要な指標であり、その水準が生活実態をどの程度反映しているのか、また貧困対策としてどれほど効果的なのかは、常にメディアで激しい議論を呼ぶ大きなテーマです。本稿では、2025年7月に施行されたマニラ首都圏の最低賃金引き上げと、それに伴って生じた「賃金の歪み」に焦点を当てます。
目次
最低賃金改定の概要と労働者の生活への影響
最低賃金は全国一律ではなく、首都圏と地方の格差は拡大の一途をたどっています。その結果、より高い賃金を求めて、多くの日雇い労働者がすでに人口過密状態にある首都圏へ流入しています。
2025年7月18日、マニラ首都圏における最低賃金(日給)は、従来の645ペソから695ペソへと引き上げられました。この最低賃金は、農業セクターや、従業員15人以下の小売業、常時10人未満を雇用する製造業以外の事業に適用されます。
過去3年間における首都圏の最低賃金推移は、図表1のとおりです。

多くの労働者にとって、最低賃金の額はまさに生命線です。子ども二人を抱える家庭が月収15,000ペソ前後で生活し、食費や家賃、学費をやり繰りすることは珍しくありません。わずかな賃上げであっても、光熱費を期日内に支払えたり、食料を少し多く購入できたりと、生活に直結する変化をもたらします。
しかし、その恩恵がすべての労働者に均等に及ぶわけではありません。例えば、個人経営の小売店員、個人タクシー運転手、フードデリバリー従事者、大工など、最低賃金法の適用外となる職種に就く人々は、賃上げの恩恵を受けられず、むしろ物価上昇の影響を直接受けることになります。
最低賃金改定がもたらす労働市場への影響
最低賃金の引き上げは、雇用市場の構造にも変化を及ぼします。企業の中には、人件費負担の増加を避けるために新規採用を控える傾向が強まるところもあり、特に業界未経験の新卒者にとっては就職競争が一層厳しくなります。また、低スキルの労働者を多く雇って育成するよりも、専門性や経験を備えた人材に対して高い賃金を提示して採用する戦略をとる企業(特に外資系企業)が増える傾向も見られます。
こうした変化は、若く豊富な労働力を擁するフィリピンにおいても、労働市場の二極化を加速させる要因となります。最低賃金の上昇は、一見すると労働者全体の生活水準向上に寄与するように見えますが、実際には恩恵を受ける層とそうでない層との格差を広げているのです。
賃金の歪み(Wage Distortion)のリスク
最低賃金の引き上げが施行されると、もともと最低賃金をわずかに上回っていた従業員との間で賃金差が縮まり、賃金の歪み(Wage Distortion)が発生します。これは、職位や職務内容に応じた適正な賃金差が、最低賃金の上昇によって不当に縮小または消滅してしまう現象を指します。
特に、同じ職位内で勤続年数や技能による差がなくなったり、Rank & File(一般職)とスーパーバイザー職との賃金差が近接したりすると、従業員間の不満が高まります。このような状況は労働争議や裁判の火種となることがあり、過去にはP.I. Manufacturing事件(G.R. No. 167217, 2008年2月4日)でも、最低賃金の上昇によって一般職とスーパーバイザー・職長の間の賃金の歪みの有無が争点となり、最高裁が歪みを認定し、賃金テーブルの是正を命じました。
多くの企業では、最低賃金改定のタイミングに合わせて、現地マネージャー陣から「全社員に対して同率の昇給を適用すべき」という提案がなされます。しかし、このような一律対応は短期的には不満の解消につながっても、長期的には賃金制度の整合性を損なうおそれがあります。
フィリピンでは、発言力のあるマネージャーが最低賃金上昇を理由に給与引き上げを強く主張することがあります。赴任したばかりで現地事情を十分に把握しきれていない日本人責任者がこうした主張をそのまま受け入れてしまうと、結果として、マネージャーの給与が十数万ペソである一方、企業に不可欠な技術者や有資格のSafety Officer(安全管理者)が2〜3万ペソで働いているという不均衡な状態が生じてしまいます。
賃金の歪みを防ぐための制度設計
賃金の歪みを避けるためには、単に勤続年数やインフレ率に応じて機械的に昇給するのではなく、賃金差に対する論理的な根拠を明確にしておくことが不可欠です。その基準として、図表3の4つの要素が考えられます。
これらの要素を賃金テーブルや評価制度に反映させ、最低賃金が改定されても職位間のバランスが崩れないよう設計することが重要です。また、最低賃金改定時には、必要に応じて賃金テーブルや人事評価制度の見直しを行う必要があります。現地任せで、実情に合わない賃金・評価体制のままでは、優秀な人材の流出や従業員間の不公平感を招きかねません。
特に、技術職やエンジニア、資格保持者(語学・専門技能など)については、人事評価を通じて職能給を上げたり、プロジェクト参画時の手当を設けたりすることが有効です。
最低賃金上昇に伴う自動的な一律賃金アップは、むしろマネージャークラスの賃金を不当に高くし、その結果、マネージャー陣への不満から組合結成の動きが生じたり、優秀な労働者がより給与水準の高い外資系企業へ転職したりする要因となります。
残念ながら、日系企業で教育と経験を積んだ人材が、最終的に外資系企業へ転職するという流れが定着してしまっています。優秀な労働者を定着させるための最優先事項は、最低賃金上昇に伴って生じる賃金の歪みを是正することかもしれません。





